9月20日(土)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・35-37、42-49)
  蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちない者に復活する
〔皆さん、あなたがたのうちには、〕死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
  死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちない者に復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。


ルカによる福音(ルカ8・4-15)
  良い土地に落ちたのは、御言葉をよく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである
〔そのとき、〕大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話になった。
「種を蒔く人が種まきに出て行った。」蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかに種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、
聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。
「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、
 『彼らが見ても見えず、
  聞いても理解できない』
ようになるためである。
 このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生に思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」